アラフォー事務リーマンの雑記

つらつらと思いついたことを書いていきます。

記念館三笠 ロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本の英雄

 

前回の横須賀軍港めぐりは大変楽しめた

アメリカ軍と海上自衛隊がどう日本の安全を守っているか、肌で感じることができた。

だが、今回、横須賀に来たのはそれがメインではない。

 

記念館三笠がメインだ。

 

三笠は、日露戦争の最終決戦・日本海海戦における日本の旗艦(司令長官が乗って指揮をとる船)だ。

それが残っており、記念館として展示されている。

 

一度見てみたいと学生時代からずっと思っていた。

 

関東に就職して、12年。

ついに行くことができた。

 

 

 

東郷平八郎の像の背後に三笠が見える。

 

 

東郷平八郎

 

東郷平八郎は、1848年に薩摩(鹿児島県)で武士の家に生まれる。

1862年の薩英戦争以来、戊辰戦争日清戦争日露戦争と戦い続けた人生をおくる。

 

日露戦争では、連合艦隊の最高司令官となった。

指揮官として、戦争の勝利に大きく貢献。

「東洋のネルソン」と呼ばれるほど、世界的に高い評価を得る提督である。

 

 

 

艦首の方向から臨む三笠

 

 

艦尾から臨む三笠。

 



右舷の15センチ副砲と8センチ補助砲

 

 

三笠は、1902年に就役した。

全長132m、排水量15,140トン。

 

前回の軍港めぐりでもっとも巨大だったイージス艦の「まや」よりも、排水量が大きい。

まやは、基準排水量8,200トンだ。二倍近い。

 

悪化する日露関係を受けて、世界最強の海軍を持つイギリスのヴィッカース社に発注して完成した。

当時の世界最新鋭の戦艦だ。

 

前述の通り、東郷平八郎が乗船した日本海海戦での旗艦としてとても有名。

 

日本海海戦は、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊対馬沖で激突した大規模な海戦である。

 

戦いの結果、沈没した船は、日本は水雷艇(小型の船)3隻のみ。

ロシアは、21隻が沈没した。

それとは別に、ロシア側の船は6隻が拿捕され、6隻が中立国に逃げていった。

 

死者で言えば、日本は117名で、ロシアは5,000名。

その上、ロシア側は、6,106名が捕虜になった。

バルチック艦隊の指揮官・ロジェストヴェンスキー提督も捕虜となった一人だ。

 

数字を見ても分かるように日本の完勝。

世界の海戦としても非常に珍しいパーフェクトゲームだった。

 

これによって、日本海制海権を握って、満州の日本軍を干上がらせるロシアの戦略は破綻した。

ロシアは講和のテーブルに着くことになった。

 

三笠は戦争の勝利に大きく貢献する戦艦となった。

 

しかし、1922年のワシントン海軍軍縮条約をうけて廃艦が決定。

その時、取り壊される予定だった。

 

だが、三笠があまりにも有名で、国民に親しまれたため、戦艦として使えない状態にすることを条件に記念館として残すことが認められた。

そのため、今は足元(?)がコンクリートで埋め立てられている。

 

太平洋戦争の敗戦後、艦上のものが盗まれたり、進駐軍によって甲板に水族館やダンスホールができるなど、荒廃がすすんだ。

 

しかし、東郷平八郎を尊敬していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥が、三笠の扱いに憤った。

ニミッツ元帥が、日米両国や世論に懸命に訴えたこともあり、日本政府も保存に動いた。

 

復元工事が1959年より始まり、1961年に竣工して、一般公開されるようになった。

 

 

今回の見学では、ボランティアガイドの方が、案内ツアーをしていたので参加した。

毎時、00分に始まる50分のツアー。

 

ガイドの方の話も面白くてわかりやすかった。

 

 

船首から主砲を臨む。

暑い日だからか、主砲には、日差しを遮るカバーがついている。

 

 


三笠の主砲

 

直径30センチの砲弾を音速を超える速度で発射する。

射程は10㎞。

 

 

 

甲板の上を歩く。

 

 

艦尾からは海と、その先にあるアメリカ軍施設が見える。

 

 

 

艦上から海をむけば、猿島が映る。

 

 

 

たなびくZ旗

日本海海戦で「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という意味で掲げられた。

 

 

 

 

最上艦橋

 

日本海海戦のときに東郷平八郎が指揮をとった場所。

名前の通り、最も高い艦橋。

厚い装甲に守られた指令室は別にある。

だが、東郷は高く目立つ上に、装甲で守られていない場所から指揮をとった。

 

東郷のほか、加藤参謀長、伊地知艦長、秋山作戦参謀もここにいた。

それぞれ、立っていた場所がプレートで示されている。

 

 

お互い1mも離れていない。

非常に密。

 

 

 

司令塔

 

日本海海戦では、最上艦橋より指揮が取られたが、本来ならこちらが司令塔となるべき場所。

35センチの厚い鋼板で囲まれている。

日本海海戦では、最上艦橋にいた人は誰も怪我をしなかったが、こちらの指令塔にいた人は砲弾の破片が入り、怪我をしてしまった。

 

 

 

最上艦橋より船尾を臨む。

 

 

 

 

船尾から最上艦橋を臨む。

 

上甲板から下りて、艦内を散策する。

 

 

 

長官公室

 

司令官が、指揮下の艦隊の司令官・艦長を集めて行われる会議が開かれた部屋。

バルチック艦隊の降伏文書調印もここで行われている。

 

非常に豪華。

西洋建築を見学しているような気分になって、軍艦にいることを忘れる作りだ。

 

 

 

長官室

 

東郷平八郎が執務をしていた部屋。

長官公室の奥にある。

 

 

 

連合艦隊解散の辞

 

東郷平八郎の直筆。

文面の起案は、秋山真之

 

平時における軍人の心構えを説いた。

「勝って兜の緒を締めよ」のフレーズはあまりにも有名。

 

 

 

 

バルチック艦隊の司令官ロジェストヴェンスキー提督が掲げた白旗

負けることを前提とした白旗など軍艦になかったため、テーブルクロスを使った。

 

 

 

 

士官室

 

大尉から中佐までの士官が事務をとり、食事もしていた部屋。

多くの人数を収容できる。

私はここに来たかった。

 

ボランティアガイドの案内にはなかったので、終わったらすぐにガイドの方に「士官室はどこですか」と聞きにいった。

 

来たかったのは、下記のエピソードを、事前に読んでいたからだ。

 

司馬遼太郎が、日露関係をテーマにした長編小説・坂の上の雲を書き始めた。

クライマックスの日本海海戦が近づくにあたって、日露戦争を現場で体験した海軍軍人と会うことになった。

 

司馬はどこかの料亭で会うつもりであったが、もう高齢となっていたかつての海軍軍人が、会談場所として三笠を提案した。

 

そこで、三笠の士官室で、2時間ばかりの会談が開かれた。

40代の司馬遼太郎は、集まった人たちの品格の高さに感銘を受けた。

自分の生涯でこんな品のいい集いに身を置いたのははじめてであり、以後もないだろうと感じた。

 

その後、司馬が旅行記を書くために、三笠の士官室を再度した時、士官室がかつてより小さく、薄暗くなっているように感じた。

その時には、以前の会談であった人物は、全員、鬼籍に入ってしまっている。

 

士官室が縮むはずもなく、甲板の下にあるので暗くなるわけもない。

その上で、司馬は、「三浦半島記」で以下のように書いている。

以下は、司馬遼太郎三浦半島記からの引用である。

 

おそらくあの日、この部屋にいたひとびとの気品が、私の記憶の中の部屋の照度(ルクス)を上げてしまっているのかもしれない。

 

ちかごろ、日本の世間は、以前のよさをうしなってきている。

 

往時、ここに集まった人達の品のよさがふたたび還らないと思うと、たたずんでいるだけで、記憶のなかの士官室の照度はいよいよあかるくなっているように思われた。

 

司馬遼太郎の文才には脱帽する。

 

日本海海戦を戦った人たちの品格の高さから、司馬遼太郎が生きた時代は照度が落ちている。

そして、司馬遼太郎の時代からさらに下り、現代日本人はどれほど照度が落ちているのだろうかと自問している。

 

 

ボランティアガイドの説明を聞いた後、再度、艦内を歩き回った。

甲板より下は非常にたくさんの資料があって、とても全部見切れなかった。

 

日露戦争や三笠がどういったものか流すビデオが放映されている。

他に砲のシュミレーターや、日露戦争の経緯などがまとまった説明文もあった。

 

それらは割愛した。

それでもみどころが多く、2時間近く滞在した。

 

日露戦争や三笠に興味がある人は、3時間でも4時間でも楽しめる施設である。

 

記念館三笠は非常に参考になり、面白い場所だ。

 

自身の立身出世が国家の利益になると確信して、ひたすらに走った明治人たちの青春のにおいを嗅いだ思いがする。