アラフォー事務リーマンの雑記

つらつらと思いついたことを書いていきます。

駄作映画 THE FIRST SLAM DUNK

 

 

映画、THE FIRST SLAM DUNKが2022年12月3日に公開された。

私も初日に見に行った。

 

世間では声優の交代やCG描写でヒットするか危ぶまれた。

だが、23日間の興行成績で、観客動員数340万人、興行収入50億円を突破など、好調な滑り出しをしている。

 

リアル知人や、インフルエンサーからも好評である。

 

ここで私は気づいた。

私の思いを素直に述べれば、ポディションを取れるのではないかと。

 

断っておくと、世間の流行り物に一々逆張りして叩くものは大嫌いだ。

素直に世間で売れる物は楽しもうというスタンスの方が人生楽しいだろうになんでそんなにひねくれるのかな。

 

そして、他人が楽しんでいる者にケチをつけるのも嫌いだ。

面白がっている人が面白がっているからそれでいいじゃん。

 

そして、今回私がすることは、もろにケチをつけることだ。

思想信条に反する気もする。

だが、Slam Dunkの映画について感想を黙るのもはちょっと違うと思う。

 

連載していたころからずっと好きだった。

コミックスを全巻買い、漫画ばかり読むなと親から捨てられて、少したってから完全版を全巻買った。

その完全版を東日本大震災でなくしたら、再度、単行本を全巻購入した。

 

思い入れがありまくる作品なのだ。

そんな作品が、26年振りにアニメ化される。

 

当然、期待して、公開初日に前情報をカットして見に行った。

 

そんな思い入れのある作品を見に行って、自分が納得いかないものを見た。

 

だが、興行収入や周りの評価が高い。

私が好きなインフルエンサーも褒めている。

だから、自分の不満は言わない。

 

しかし、そんなんでいいのか。

いいたいことも言えない、そんな世の中をセルフ作成してよいのか。

 

いや、ダメだ。

言いたいことをいいまくろう。

大いにポディションを取ることにしたのだ。

 

中田敦彦、マコなり社長、かかってこいや!!

駄作なもんは、駄作なんじゃ!!

 

 

ということで、ここまでグダグダと言い訳を述べたが、私の感想を語っていきたいと思う。

 

 

なんで、宮城リョータを主人公にしたの?

 

一言でいえば、これで終わりだ。

 

私は、Slam Dunkの中で、主人公の桜木花道が一番好きなキャラだ。

 

THE FIRST SLAM DUNKが好きで、ここまでムッとして読んだ方も、「桜木ファンならたしかに不満だよね~」で納得して、ブラウザバックするかもしれない。

 

だが、待ってほしい。

私が言いたいことは、桜木ファンから見て、推しの活躍が減って残念ということを言いたいのではない。

 

そもそも、Slam Dunkというのは、作者が作品として、桜木花道が主人公であるということを大事にしていると感じていた。

 

単行本の表紙は、常に桜木花道が描かれている。

他のキャラが活躍する巻でもひっそりと端っこに桜木を描いているのだ。

 

念のために、軽く解説すると、Slam Dunk高校バスケを舞台にした作品だ。

 

桜木は高校からバスケを初めた。

湘北高校バスケ部のレギュラーの中で、一番ヘタだ。

だが、桜木は、日常的な基礎練習を行って少しずつうまくなっていく。

さらに彼には、高い身体能力に闘志と不屈のメンタルがある。

一番ヘタながらも、基礎練習の成果と不屈のメンタルで活躍し、仲間に影響を与え、敵からも認められる。

そして、桜木は、人間として、バスマットマンとして成長していく。

これがSlam Dunkという作品のコアだと思っている。

 

試合で桜木よりも活躍するキャラはいくらでもいる。

湘北高校ならキャプテンの赤木や、桜木のライバルでエースの流川などがそうだ。

彼らが桜木より活躍しなかった試合など一度もない。

しかし、試合のターニングポイントやチームにとって絶望的な場面では、桜木がキラリと光る活躍をする。

 

牧を吹っ飛ばして決めたダンクや、仙道から最高のパスを貰った魚住のシュートをブロックしたことなどが顕著だ。

 

繰り返すが、チームの中で一番ヘタな桜木が、努力と才能とメンタルで、キーポイントで活躍するというのがSlam Dunkという作品の大事な部分だ。

 

しかし、今回は、宮城リョータが主人公だ。

宮城リョータは、湘北で一人だけ、全試合でフル出場しているキャラクターだ。

当然、桜木よりもうまい。

もうこの段階で、Slam Dunkではなくなった。

 

30年ぶりに作られたテニスの王子様の映画でいきなりタカさんが主人公になったり、ぼっち・ざ・ろっく2期の主人公が山田になったようなものだ。

タカさんや山田が好きな人でも違和感を抱く人は多いだろう。

 

桜木を主人公から外したことが致命的だ。

それにしても、桜木以外から主人公を選ぶにしてもなんで宮城なんだろうと思った。

 

ライバルの流川や、キャプテンの赤木なら活躍する描写が多くある。

だが、宮城はスタメン5人の中で一番活躍の描写が少なかった人物だ。

 

スタメンどころか、人によってはベンチメンバーの小暮よりも描写が少ないという人がいるだろう。

ちなみに私もそう思う。

小暮が決勝トーナメントの陵南戦で3ポイントシュートを決めるシーンが、それまでの努力の回想とあいまって素晴らしすぎるのだ。

 

宮城の活躍描写が少なかったことが作者の心残りで、今回、主人公にしたのではないかと言われる。

私のリアル知り合いも何人もそういった。

私もそう思っている。

 

それに対して私はこう言いたい。

「そんなのを26年振りの映像化のアニメでやるなよ!!」

 

さらに言いたい。

「どうしてもやりたきゃ、事前に宮城が主人公と言えよ!!」

 

ちょっと番外編を描くなり、何本かアニメ短編を作る中の一作で宮城リョータ主人公をするのはまったく問題ない。

 

だが、今回は26年振りのアニメ化で、しかもそれが映画なのだ。

今まで活躍を描かなかったキャラの救済のような形で使われたら、作品の大ファンとしてはたまったものではない。

 

そして、何より主人公を変えるということを事前に告知しないのは、きわめて悪質だ。

 

 

映画では、原作の山王工業との戦いが描かれる。

山王工業は前年の優勝校で、山王戦は原作きっての名試合と名高い。

原作で描かれた最後のゲームだ。

 

山王戦は、湘北メンバーが全員活躍するが、やはり活躍のウェイトは主人公の桜木が多い。

圧倒的な山王の力の前に、メンバーが絶望にうちひしがれる中、桜木は来賓の机に土足でよじ登り、「ヤマオーは俺が倒す」と会場中に叫ぶ。

(多分、こんなことをリアルでしたら一発退場だろう)

そこで自身に活を入れ、仲間たちに勝つしかなくなったと鼓舞する。

 

試合展開としては、湘北メンバーそれぞれの活躍で追い上げていき、試合の終盤でついに逆転した。

だが、山王の底力によって、最終盤で再逆転を許してしまう。

 

もはや時間はほとんどない。

流川が決死の思いでボールを運び、シュートしようとする。

だが、山王のディフェンスの前に、完全にブロックされる体勢となった。

その瞬間、桜木がフリーになっていることを見た流川は、とっさに桜木にパスをする。

桜木が地道に練習して得たジャンプシュートを時間ギリギリで決めて、湘北高校が勝つ。

 

それまで嫌いあっていた桜木と流川が、タッチを交わして幕を閉じる。

 

 

その試合展開は、映画でもまったくいじっていない。

むしろ、忠実に再現している。

 

結果、桜木の活躍描写が多いのに、宮城視点での描き方で、要所で宮城の回想が入るという、なんともチグハグな作品になってしまった。

 

素直に桜木を主人公にすれば、回想で、ジャンプシュートの練習シーンや、流川とのそれまでの確執を入れることができる。

そうすることで、最終版の行為に重みを持たせることができた。

 

なんとも残念である。

 

 

ちなみに、ここまでボロクソにいってきたが、映像自体は素晴らしい。

ノローグなどを極力入れずに、映画の時間の流れを現実と近くさせている。

実際にバスケの試合を見ているようなリアルさを感じた。

 

特に漫画を何度みてもいまいちわからなかった山王のゾーンプレスについて、「なるほど、こういう動きか」と納得した。

 

前評判で叩かれたCGもまったく気にならなかった。

むしろリアルな動きを見ているようで良かった。

非常にクオリティの高い映像になっている。

 

声優変更もまったく気にならなかった。

 

 

不満点は宮城リョータを主人公にしたことだけである。

しかし、それがあまりにも致命的すぎた。

 

信長の野望 大志 PK レビュー

 

 

お盆休みに、「信長の野望 大志withパワーアップキット」を初めた。

発売日に買って、まったくやらずに3年以上、寝かせたものだ。

 

夏休みは、朝7時までプレイし続けてから寝て、午後2時に起きて再度始めるような生活を続けて、7大名でクリアできたので、レビューをしていきたい。

(今川・上杉・毛利・島津・伊達・織田・長宗我部でクリア。

 うち、伊達は完全制覇)

 

 

1.委任がすごい

今回の作品は委任が非常に優秀になった。

 

従来の作品でも、領土の一部をコンピューターに委任するといったことができた。

だが、今回はレベルが根本から違う。

 

内政や人事のありとあらゆる面で、優秀なAIが判断してくれる。

さらに、どれをしてよくて、どれはしてはならないという詳細も、細かく設定できるようになった。

 

空いた土地に農業施設や、商業施設、軍事施設や家臣の養成施設などの設置ができる。

その建設について、一つ一つ、どの施設の建築を許可するか、設定できる。

 

施設の建設だけでない。

 

今回の信長の野望の内政は、独特のシステムを入れて、農業も商業も抜本的に変革した。

農業については、開墾、灌漑、種蒔きなどを、年の決まった時期にやる。

お金や労力と相談しながら、豊かな土地を目指すものだそうだ。

 

「だそうだ」というのは、ほとんどしたことがないからである。

農業は全委任にして、7大名でクリアした。

特にそれで困ったことはなかった。

 

商業も、商圏に進出するという独自システムになった。

最初はちょっとやっていたが、面倒になったので途中から完全に委任にした。

こちらも別に困ったことはない。

 

思考のリソースは、外交と軍事中心になった。

 

内政好きな人にとっては、全委任であまりこまらない今作がどう思うのか聞いてみたいところではある。

 

内政だけでない。配属の委任。

これはさらに優秀。

 

最前線に武闘派を持ってきてくれるし、おおむね満足。

 

やや不満があるとすれば、同盟している勢力や講和している勢力を、期間が満了の直後に攻めたい時だ。

期限切れの前に配属しておきたいが、味方陣営なので、武闘派はいない。

「仮想敵国筆頭」などのシステムを設けて欲しい気もする。

 

それら非常に優秀な委任。

だが、一度設定したらコンピューターに完全に任せざるを得ないのではない。

委任を設定しても自分で行うことができて、自分でやった後に、さらに不備がないかコンピューターが判断をする。

 

非常に使い勝手がよいものになった。

 

 

2.戦争システムは前作の創造を継承

戦争は、リアルタイム制で、決戦として別マップに行く前作のシステムを継承している。

今回は、各地に設定されている戦闘可能人数がとても重要だ。

 

自分が10万人の兵を連れていても、戦闘可能人数が3000人の場所なら、そこで決戦が起こったら、3000人の部隊での戦争になる。

 

負けたら、ダメージが30倍になって帰ってくる。

 

桶狭間厳島を想定したのだろう。

 

このシステムは好みは分かれると思う。

だが、進行のために敵地の戦闘上限を上げる施設や、防衛のために戦闘上限を下げる施設などがあり、戦略の幅も広がるので、個人的にはアリだ。

 

 

3.講和が通りやすく、継戦期間に限りがある

そして今回、もっとも変わったかもしれないのが講和のしやすさだ。

戦争を継続すると内政にダメージが行くようになった。

 

今までは、相手に勝てる兵士と家臣、兵糧を持って、決戦に挑む。

決戦に勝ったら、その大名家を潰すまで戦争をし続けるのが、王道だった。

 

途中でやめるとしたら、兵糧がなくなった時か、敵に強力な同盟相手が誕生した時、留守の間に別勢力に攻められた時くらいだった。

 

しかし、今作は、同一勢力と6か月以上戦争をすると、民が疲弊し、拠点の「民忠」が落ちる仕様になった。

民忠が落ちると、一揆が起きやすくなる。

一揆が起きると金や兵糧が得られないし、募兵もできなくなる。

なので、半年を過ぎるとプレイヤーも講和を考え、コンピューターも講和を申し込んでくる。

 

今までは、有力な大名が攻めて来たら、防衛戦に勝たなければおしまいだったが、今回は半年粘れば、だいたい講和が通る。

 

時間を稼いで城を落とされずに、あるいは落とされても1城、2城にとどめて、時間を稼ぐという戦略が成り立つようになって、弱小大名の生きる道もできた。

 

上杉家でプレイしている時に包囲網を組まれて、北の南部と南の織田から同時に宣戦されたことがある。

 

南部攻めに集中するために、優秀な家臣を北に重点配備して、織田が宣戦しても粘って、取られるのを1城ですませるようなプレイをしていた。

 

守るときだけでなく、自分が攻める時も、「今の民忠なら、戦争できても8か月、ギリ9か月。だとしたら、今回の戦争で抜けるのは3城くらいか。」という時間とのバランスが大事になってくる。

 

今までのように、一回攻めたら滅ぼすまで戦争をし続けるというのは、たしかに非現実的だった。

農閑期に戦争をしていたリアルと、ゲームの戦略性がほどよく融合した使用だと思う。

 

 

さて、これまでは良かった点を述べたが、残念だった点や要望を用意した。

 

 

1.優秀すぎる委任

さんざん、今作の委任の優秀さをほめておいたが、それゆえプレイヤーがするモチベーションがなくなってしまう。

 

前々作の天道では、城の金収入が増えることを、全作の創造では、城の人口と兵力が増えることをいつくしみながら眺めたが、今作はそんなこともなくなった。

 

拠点を育てるモチベーションがあまりなくなってしまった。

 

 

2.流動的な外交

今作は、敵をいきなり攻めることができずに「宣戦」をしなければ戦争を始めることができなくなった。

 

宣戦をすると、当事者以外の大名家は、敵・味方・中立などに分かれる。

これで同盟相手が自陣営の敵に立つことになると、苦心して築いた関係も簡単に瓦解してしまう。

 

織田家が朝倉家に宣戦したら、浅井家が即座に姻戚同盟を切ったように、リアルな仕様かもしれないが、ゲームとしての魅力は感じなかった。

 

 

3.強すぎる国衆招聘

本作には、大命というシステムがある。

3か月ごとに家臣が進言するポイントを使うことで、期間限定で、様々なメリットを得られるものだ。

家臣の忠誠を上げたり、民忠を上げたり、行軍速度が上がったり、軍隊の兵糧の消費が少なくなったり様々なものがある。

 

その中の一つ「国衆招聘」が強すぎる。

大名ごとにどの大命を持てるかは違うが、この大命は持つ持たないで戦略に差が出るぶっこわれ性能だ。

 

戦場で決戦になったときに、兵力が3割増しになる方策である。

 

1万人を率いていたら、いざ決戦となったときに1万3千人になる。

 

それだけで十分強いのだが、チート級と言えるのは、戦場上限を無視できる点だ。

 

前述のように、地形によって決戦兵力に上限が決まっていて、10万人の大軍を率いていても、上限が5000人の場所なら、5000人での決戦になる。

相手が5000人ギリギリを率いてきたとしたら、10万 対 5000が、5000 対 5000になる。

 

それはシステムとして納得するが、国衆招聘は、そこから3割増しで兵力を上乗せすることができる。

少ない方が国衆招聘を持っていたら、10万 対 5000の戦争が、5000 対 7500で兵力が優勢になってしまう。

 

戦場上限に上乗せできるのは、チートすぎる。

 

せめて半分の15%増くらいにとどめるか、戦場上限を超えることはできないという縛りがあってほしかった。

 

 

4.鉄砲の強さが分からない

これは自分の決戦の仕方が下手なだけかもしれないが、鉄砲隊の強さが分からない。

射撃であまり兵力が減らない上に、雨だと使えなくなるからすぐに柄で殴りつけることになる。

 

 

5.足軽に金がかかりすぎる

兵士は農兵と足軽の2種類がいる。

農兵を募集すると兵糧収入が減り、足軽を募集すると金銭収入が減る。

足軽の金銭収入の減り方が多すぎる。

せっかく足軽という存在を作っても、結果あまり雇用できず差がよく分からなかった。

 

足軽雇用のための金銭は、3分の1くらいでよかったのではないだろうか。

 

 

総論

最後に総論を述べる。

 

天道や創造の方が面白かった。

 

どっちも10を超える大名でクリアしたが、大志は5大名くらいで飽きが来た。

佐竹とか、赤松とかマイナーでやや小さめの大名で統一する楽しみが残っているのだが、あまりモチベーションが湧かない。

 

むしろPKがでていない現状ですら、評判が高い新生をやりたくなってきている。

 

ただ、つまらないかと言えば、一概にそうとも言えない。

10点満点なら6~7点は与えられる。

 

絶賛するか、ボロカスにこき下ろすかできたら良かったのだが、なんともしまらない結論になってしまった。

9月1日 防災の日は関東ローカル?

 

 

本日、9月1日は防災の日だ。

1923年の9月1日に発生した関東大震災が日付の由来である。

死者・行方不明者あわせて10万5000人も発生した大地震だ。

 

私は、防災の日の存在とそれが関東大震災に由来することは知識としては知っていた。

だが、知識のみであって、意識の差を感じさせるできごとがあった。

 

会社の同僚(横浜在住)が、防災の日避難訓練で子供を出迎えるため、時間休暇を取るという連絡が入った。

上司からそれを聞いた時の会話だ。

 

上司「〇〇さん(同僚)は、子供の避難訓練で時間休暇を取るって」

私 「ああ、横浜は(関東大震災で)東京以上の被害が出たらしいし、

   そういうことするんですね」

上司「今日、防災の日だよ」

 

なんか、話がかみ合わないと思って、上司や他の同僚に聞いてみた。

そこで、関東地方(東京都と神奈川だけ?)では、防災の日避難訓練が大体、どの学校でも行われるそうである。

 

私は福島出身だが、学校の避難訓練が特定の日と定まっていた記憶がない。

防災の日が、9月1日と習った覚えもない。

就職で上京してから知った。

 

もしかして自分の記憶力の問題かもしれないと思い、

東北や新潟出身の別の同僚に聞いてみた。

だが、やはり特定の日を定めて避難訓練をしたことはないということだ。

 

身近のサンプルから以下の結論に達した。

 

日本政府が定める防災の日は9月1日。

東京と神奈川では、その日に避難訓練がさかんに行われる。

他の地方ではそうではない。

 

なかなか面白いことのようにも感じられた。

 

中央政府が定めた以上、もとの関東大震災という事象とは切り離して、

9月1日をもって全国で避難訓練を行うことがある種、正しいかもしれない。

 

だが、日付のゆかりとなった関東大震災が、

離れた地域の大昔のできごとと捉える地方の人は、

自分たちを襲った別の災害の日を独自の「防災の日」にしているのではないか。

 

自分の身近な場所での最近の災害よりも、

遠くの場所の大昔の災害の被害に思いをはせることは、なかなか難しいだろう。

 

私は福島出身なので、東日本大震災が起きた3月11日の方が、

よほど防災意識がわいてくるる。

宮城、岩手の人もおそらくそうだろう。

 

関西の人は、阪神大震災が起きた1月17日がそうであるかもしれない。

 

私が知らないだけで、他の地域でもそれぞれの防災の日はあるのかもしれない。

全国一律に日付を設定する意義も分かるが、

独自の防災の日は、それぞれの地域で続いていく。

 

防災意識を養うということでも、その方がより効果的だろう。

昇進と副業

 

 

久しぶりのブログ更新である。

 

書くことがなかったわけではなく、むしろ多かった。

 

その書くことについてざっくり書いていきたい。

 

 

1.昇進

 

会社で昇進が決まった。

 

今の会社に勤めて12年。

グレードが上がったことはあっても、役がついたことはなかった。

今回、晴れて役がつくことになって、素直に嬉しい。

 

給与も上がるし、自身の仕事ぶりが評価されたことで自己肯定感が満たされた。

 

転職活動は当面お休み。

刃は研ぎ続けたいが、とりあえず本業を頑張ろう。

 

そして、下がっていたモチベの時に溜まっていた仕事でなかなか忙しい。

少しずつ減らして、楽しい夏休みを過ごしたい。

 

2.副業の受注

 

副業のWEBライティングもなかなか順調。

 

単価がよいものを複数行っているうえに、

単価が低くても書きたかったジャンルも受注して納品できた。

 

書きたいジャンルは、調べてる時も書いてる時も楽しいものだ。

 

クライアントの期待に応えることが第一だが、クライアント関係なしにいいものを書きたいという意思が強く湧いてくる。

 

書きたいジャンルの単価も上げられるように精進していきたい。

 

 

3.暑い

 

今までは更新が滞った理由として、忙しさを述べた。

今度は別のベクトルから。

 

私のブログは旅行系の記事の伸びがよい。

私自身も行くのも書くのも好きなので、書きたいと思っている。

 

だが、今はそう簡単にはいかない。

 

暑くて出る気になれないんだよお。

 

行きたい場所は複数あるけど、どうしたものか。

 

行きたい場所ということで多少脱線するが、ゆるキャン△の映画に出た山梨県庁も面白そう。

 

映画にでてきたのは、別館らしいが、1930年に竣工した豪華かつ巨大な近代建築だ。

見てみたい。

前回、甲府に行った際は、時間の都合であきらめた甲府城のそばにある。

ぜひ今度、行ってみたい。

 

話題がとびとびになる悪文だが、書きたいこと書くときはこんなものでよい。

記念館三笠 ロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本の英雄

 

前回の横須賀軍港めぐりは大変楽しめた

アメリカ軍と海上自衛隊がどう日本の安全を守っているか、肌で感じることができた。

だが、今回、横須賀に来たのはそれがメインではない。

 

記念館三笠がメインだ。

 

三笠は、日露戦争の最終決戦・日本海海戦における日本の旗艦(司令長官が乗って指揮をとる船)だ。

それが残っており、記念館として展示されている。

 

一度見てみたいと学生時代からずっと思っていた。

 

関東に就職して、12年。

ついに行くことができた。

 

 

 

東郷平八郎の像の背後に三笠が見える。

 

 

東郷平八郎

 

東郷平八郎は、1848年に薩摩(鹿児島県)で武士の家に生まれる。

1862年の薩英戦争以来、戊辰戦争日清戦争日露戦争と戦い続けた人生をおくる。

 

日露戦争では、連合艦隊の最高司令官となった。

指揮官として、戦争の勝利に大きく貢献。

「東洋のネルソン」と呼ばれるほど、世界的に高い評価を得る提督である。

 

 

 

艦首の方向から臨む三笠

 

 

艦尾から臨む三笠。

 



右舷の15センチ副砲と8センチ補助砲

 

 

三笠は、1902年に就役した。

全長132m、排水量15,140トン。

 

前回の軍港めぐりでもっとも巨大だったイージス艦の「まや」よりも、排水量が大きい。

まやは、基準排水量8,200トンだ。二倍近い。

 

悪化する日露関係を受けて、世界最強の海軍を持つイギリスのヴィッカース社に発注して完成した。

当時の世界最新鋭の戦艦だ。

 

前述の通り、東郷平八郎が乗船した日本海海戦での旗艦としてとても有名。

 

日本海海戦は、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊対馬沖で激突した大規模な海戦である。

 

戦いの結果、沈没した船は、日本は水雷艇(小型の船)3隻のみ。

ロシアは、21隻が沈没した。

それとは別に、ロシア側の船は6隻が拿捕され、6隻が中立国に逃げていった。

 

死者で言えば、日本は117名で、ロシアは5,000名。

その上、ロシア側は、6,106名が捕虜になった。

バルチック艦隊の指揮官・ロジェストヴェンスキー提督も捕虜となった一人だ。

 

数字を見ても分かるように日本の完勝。

世界の海戦としても非常に珍しいパーフェクトゲームだった。

 

これによって、日本海制海権を握って、満州の日本軍を干上がらせるロシアの戦略は破綻した。

ロシアは講和のテーブルに着くことになった。

 

三笠は戦争の勝利に大きく貢献する戦艦となった。

 

しかし、1922年のワシントン海軍軍縮条約をうけて廃艦が決定。

その時、取り壊される予定だった。

 

だが、三笠があまりにも有名で、国民に親しまれたため、戦艦として使えない状態にすることを条件に記念館として残すことが認められた。

そのため、今は足元(?)がコンクリートで埋め立てられている。

 

太平洋戦争の敗戦後、艦上のものが盗まれたり、進駐軍によって甲板に水族館やダンスホールができるなど、荒廃がすすんだ。

 

しかし、東郷平八郎を尊敬していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥が、三笠の扱いに憤った。

ニミッツ元帥が、日米両国や世論に懸命に訴えたこともあり、日本政府も保存に動いた。

 

復元工事が1959年より始まり、1961年に竣工して、一般公開されるようになった。

 

 

今回の見学では、ボランティアガイドの方が、案内ツアーをしていたので参加した。

毎時、00分に始まる50分のツアー。

 

ガイドの方の話も面白くてわかりやすかった。

 

 

船首から主砲を臨む。

暑い日だからか、主砲には、日差しを遮るカバーがついている。

 

 


三笠の主砲

 

直径30センチの砲弾を音速を超える速度で発射する。

射程は10㎞。

 

 

 

甲板の上を歩く。

 

 

艦尾からは海と、その先にあるアメリカ軍施設が見える。

 

 

 

艦上から海をむけば、猿島が映る。

 

 

 

たなびくZ旗

日本海海戦で「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という意味で掲げられた。

 

 

 

 

最上艦橋

 

日本海海戦のときに東郷平八郎が指揮をとった場所。

名前の通り、最も高い艦橋。

厚い装甲に守られた指令室は別にある。

だが、東郷は高く目立つ上に、装甲で守られていない場所から指揮をとった。

 

東郷のほか、加藤参謀長、伊地知艦長、秋山作戦参謀もここにいた。

それぞれ、立っていた場所がプレートで示されている。

 

 

お互い1mも離れていない。

非常に密。

 

 

 

司令塔

 

日本海海戦では、最上艦橋より指揮が取られたが、本来ならこちらが司令塔となるべき場所。

35センチの厚い鋼板で囲まれている。

日本海海戦では、最上艦橋にいた人は誰も怪我をしなかったが、こちらの指令塔にいた人は砲弾の破片が入り、怪我をしてしまった。

 

 

 

最上艦橋より船尾を臨む。

 

 

 

 

船尾から最上艦橋を臨む。

 

上甲板から下りて、艦内を散策する。

 

 

 

長官公室

 

司令官が、指揮下の艦隊の司令官・艦長を集めて行われる会議が開かれた部屋。

バルチック艦隊の降伏文書調印もここで行われている。

 

非常に豪華。

西洋建築を見学しているような気分になって、軍艦にいることを忘れる作りだ。

 

 

 

長官室

 

東郷平八郎が執務をしていた部屋。

長官公室の奥にある。

 

 

 

連合艦隊解散の辞

 

東郷平八郎の直筆。

文面の起案は、秋山真之

 

平時における軍人の心構えを説いた。

「勝って兜の緒を締めよ」のフレーズはあまりにも有名。

 

 

 

 

バルチック艦隊の司令官ロジェストヴェンスキー提督が掲げた白旗

負けることを前提とした白旗など軍艦になかったため、テーブルクロスを使った。

 

 

 

 

士官室

 

大尉から中佐までの士官が事務をとり、食事もしていた部屋。

多くの人数を収容できる。

私はここに来たかった。

 

ボランティアガイドの案内にはなかったので、終わったらすぐにガイドの方に「士官室はどこですか」と聞きにいった。

 

来たかったのは、下記のエピソードを、事前に読んでいたからだ。

 

司馬遼太郎が、日露関係をテーマにした長編小説・坂の上の雲を書き始めた。

クライマックスの日本海海戦が近づくにあたって、日露戦争を現場で体験した海軍軍人と会うことになった。

 

司馬はどこかの料亭で会うつもりであったが、もう高齢となっていたかつての海軍軍人が、会談場所として三笠を提案した。

 

そこで、三笠の士官室で、2時間ばかりの会談が開かれた。

40代の司馬遼太郎は、集まった人たちの品格の高さに感銘を受けた。

自分の生涯でこんな品のいい集いに身を置いたのははじめてであり、以後もないだろうと感じた。

 

その後、司馬が旅行記を書くために、三笠の士官室を再度した時、士官室がかつてより小さく、薄暗くなっているように感じた。

その時には、以前の会談であった人物は、全員、鬼籍に入ってしまっている。

 

士官室が縮むはずもなく、甲板の下にあるので暗くなるわけもない。

その上で、司馬は、「三浦半島記」で以下のように書いている。

以下は、司馬遼太郎三浦半島記からの引用である。

 

おそらくあの日、この部屋にいたひとびとの気品が、私の記憶の中の部屋の照度(ルクス)を上げてしまっているのかもしれない。

 

ちかごろ、日本の世間は、以前のよさをうしなってきている。

 

往時、ここに集まった人達の品のよさがふたたび還らないと思うと、たたずんでいるだけで、記憶のなかの士官室の照度はいよいよあかるくなっているように思われた。

 

司馬遼太郎の文才には脱帽する。

 

日本海海戦を戦った人たちの品格の高さから、司馬遼太郎が生きた時代は照度が落ちている。

そして、司馬遼太郎の時代からさらに下り、現代日本人はどれほど照度が落ちているのだろうかと自問している。

 

 

ボランティアガイドの説明を聞いた後、再度、艦内を歩き回った。

甲板より下は非常にたくさんの資料があって、とても全部見切れなかった。

 

日露戦争や三笠がどういったものか流すビデオが放映されている。

他に砲のシュミレーターや、日露戦争の経緯などがまとまった説明文もあった。

 

それらは割愛した。

それでもみどころが多く、2時間近く滞在した。

 

日露戦争や三笠に興味がある人は、3時間でも4時間でも楽しめる施設である。

 

記念館三笠は非常に参考になり、面白い場所だ。

 

自身の立身出世が国家の利益になると確信して、ひたすらに走った明治人たちの青春のにおいを嗅いだ思いがする。

 

横須賀軍港巡り・体験談 世界のイージス艦の一割が集結する場所

 

YOKOSUKA軍港巡りに行ってきた。

横須賀の米軍施設と海上自衛隊の司令部を、クルージングで見学するツアーだ。

 

 

 

最寄りの汐入駅を下りて、会場に向かう。

駅から徒歩5分。

海辺にある商業ビル・Coasaka Bayside Storesの2階が受付だ。

 

料金は、大人ひとり1,600円。

 

 

空きがあれば当日からでも乗れるが、事前受付をした方がより安全だ。

 

受付をすませ、乗船25分前に乗り場に向かう。

乗り場はビルの一階を出てすぐだ。

 

25分前だというのにすごい人だかりが並んでいた。

船内は自由席で、早いもの勝ちだからだ。

 

 

 

出航15分前に、クルージングの船が到着した。

 

晴れていて暑い日だったので、2階の席、特に米軍施設がよく見える右側の席を狙っていた。

 

一応取れたが、進行方向と逆側に背を預ける席になってしまった。

より確実に好みの席を取りたい人は30分以上前に並ぶことを勧める。

 

そして、時間通りに出航。

船が動き出すとテンションが上がってくる。

 

右側に米軍の施設、左側に海上自衛隊の施設がある。

 

 

まずは、米軍基地にある自衛隊の潜水艦がお出迎え。

なぜ、海上自衛隊の潜水艦が米軍基地にあるかは、ガイドの方の説明はなかった。

 

自衛隊の潜水艦があるのは、横須賀と呉のみであるとのこと。

 

 

 

海上自衛隊護衛艦きりしま

1995年就役。全長は165m。

基準排水量(船の重量を示す数字・事実上の質量)は、7,250トン。

 

よくニュースなどで聞く「イージス艦」である。

 

イージス艦とは、イージスシステムを搭載した船だ。

イージスシステムは、もともと、大量のミサイルを同時に打ち込まれることから空母を守るために作られたシステム。

200以上の目的を同時に捉え、10以上の目的に同時に対処することが可能。 

 

索敵範囲も非常に広い。

きりしまのレーダーは横須賀にいながら秋田県まで探知可能である。

 

理論上、3隻のイージス艦があれば、北海道から沖縄まで日本のほぼ全てをカバーすることができる。

 

日本は現在、8隻のイージス艦保有しており、そのうちの1隻だ。

 

 

イージス艦の特徴。

八角形のレーダーの受発信装置。

イージス艦の眼となる部分だ。

 

 

 

アメリカ側にも多数のイージス艦

 

イージス艦は一隻あたり1000億円以上する。

 

非常に高額なので世界に100隻ほどしかない。

そのうち10隻を超えるイージス艦が横須賀を母港としている。

 

世界のイージス艦の一割がここに集結しているのだ。

 

 

アメリカ軍港
本来ならここに原子力空母、ロナルド・レーガンがある。

今はいない。

 

防衛機密のため、あるかないかは、出航しないとわからないことは事前に理解していたが、残念。

 

ロナルド・レーガンは、全長333mで、満載排水量101,429トン。

航空機90機が搭載可能である巨大な空母。

 

米軍の空母でも唯一、アメリカ本国以外を母港としている。

見たかったが、ないものはしかたない。

 

 

 

 

消磁所

艦隊の磁力を消すための施設。

 

船は長期間、運航すると磁力がたまっていく。

それを定期的に消さないと、機雷に反応するリスクが高まる。

日本では横須賀にしかない。

 

 

 

アメリカの貨物弾薬補給艦

弾薬や食料・水などを貯蔵する動く倉庫。

一隻が合流するだけで、部隊が一か月、行動可能になるといわれる。

 

 

 

潜水艦救難艦・ちよだ

その名の通り、事故にあった潜水艦を救助するための船。

 

 

 

 

その他にも多数の海自の艦隊。

並んでいるのは、護衛艦やまぎりとあまぎり。

共に、1985年から1991年に建造されたあさぎり型護衛艦

 

やまぎりは1989年就役。

全長は137m。基準排水量3,500トン。

さきほどのきりしまと比べて、ひと回り小さい。

 

 

 

 

やまぎりの兵装

 

 

 

 

海上自衛隊の潜水艦

 

 

 

新井掘削水路

明治時代に陸地を掘って作った人工的な水路。

明治時代に掘削して作った。

ショベルカーもない当時の技術では大変な苦労があっただろう。

 

 

 

はしだて

自衛隊の船で豪華な内装がある。

海の迎賓館とも呼ばれる。

VIPのおもてなしやドクターシップとして活躍する。

 

 

 

 

 

護衛艦のもがみ(右)と、くまの(左)

2022年3月に就役したばかりの新人たち。

 

全長133m。基準排水量3,900トン。

マストを覆うことでステルス性を高めたコンパクトな護衛艦

 

 

 

 

護衛艦まや

2020年3月に就役。

全長170m、基準排水量8,200トンの大型護衛艦

 

先述のきりしまと同じく、日本に8隻しかないイージス艦の一つ。

 

 

 

一周してもどってきた。

 

こちらは、一番最初に紹介した護衛艦きりしま。

最初は左側に見えたが、一周して右側に見えるようになった。

 

45分のクルージングは時間通りに終わった。

 

最高気温が34度の暑い日だったが、2階席は風が心地よくすずしかった。

 

ガイドの方の説明もわかりやすく、ミリタリーに詳しくない人も楽しめるツアーになっている。

 

晴れた日に横須賀を観光する際は、ぜひおすすめのツアーだ。

芝大神宮 オフィス街にそびえる小ぶりな神社

 

前回の記事のとおり、増上寺にいってから、芝大神宮に向かう。

芝大神宮は、東京十社の一つだ。

 

 

オフィス街をすすむ。

 

 

社号標

 

 

階段の上にすぐ拝殿がある。

 

 

 

茅の輪をくぐって参拝。

 

私は一度くぐっただけだが、本来は、8の字に3度くぐりぬけるのが正しい作法。

茅の輪くぐりは、6月30日に行われている「夏越の祓」の儀礼の一つだ。

だが、6月中旬でも置いている神社は多い。

 

 

 

 

 

 

 

拝殿

気品を感じさせる作り。

 

 

芝大神宮は、1005年に創建された。

御祭神は、天照大御神豊受大神

伊勢神宮の内宮と外宮と同じだ。

 

もともと、この神社があるあたりは伊勢神宮の荘園であった。

 

かつて、芝大神宮は、今の増上寺の場所にあった。

前回、述べたように徳川家康によって増上寺が移設されることに伴って、芝大神宮も1598年に現在地へ移動した。

玉突きである。

 

江戸時代、お伊勢参りが大流行した。

その時に同じ神を祀っていて、伊勢に行かなくてもお参りできるということで、江戸っ子に人気をはくした。

 

 

 

 

 

社務所や手水社など。

 

 

私は今まで東京十社を色々見てきた。

これで七社目だ。

 

芝大神宮は、その中で、ダントツに小さい。

 

東京十社は、広い境内を持つのが当たり前だと考えていたので、「これですべて?」と思った。

 

それには理由がある。

 

かつては、芝大神宮も他の東京十社と同じように、多くの摂社・末社を有していた。

関東大震災東京大空襲などあまたの災害で焼失して、そのたびに本殿に合祀されていったのだ。

この辺りがオフィス街で、必要としていた人が多いこともあったのだろうか。

 

どんどん摂社・末社が減っていき、本殿のみが残るようになった。

 

 

時代の流れを感じさせる神社である。