アラフォー事務リーマンの雑記

つらつらと思いついたことを書いていきます。

岡左内  偉大なる銭ゲバ

 

 

 

現代日本で、お金を大事にする人は多い。時に大事にするどころか、お金を増やすことを生きがいにしているような人もいる。時に銭ゲバと非難される。

戦国時代にも銭ゲバと呼ばれるような人物がいた。その名は、岡左内

どれほど銭ゲバだったのか。そして、単なる金に汚い存在に過ぎなかったのか。
彼の人生を見て行こう。

 

1.蒲生氏郷のもとで大出世

左内は、1567年に若狭(今の福井県西部)に生まれた。若狭は、左内が7歳の時に織田信長支配下に入った。元服した左内は、蒲生氏郷に仕えることになる。


蒲生氏郷は、もともと人質として織田信長に預けられた人物だ。

しかし、信長が、氏郷の様子を見て、この子はただ者でないと目をかけた。氏郷もそれに見合う活躍をして、ついに信長の娘婿になった。

以降も氏郷は、期待を裏切らず、文武ともにバツグン。茶の湯千利休の七大弟子のひとりと言われるまでの器量人となった。

 

左内は、そんな氏郷に使えながらも、暇を見ては草履を作って、小金を稼いでいた。

同僚は、左内をバカにした。小金をあくせくと作るのではなく、武芸を鍛えて、戦場で功績をたてるのが第一だということだ。たしかに一里ある批判だ。

しかし、そんな非難も意にとめずに小金を稼いだ。そして、稼いだお金を使うことなく、ちまちまと貯めていった。

 

時代は、信長が死に、豊臣秀吉が政権を固めている時だ。

そんなある日、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして、関東の北条家を征伐するために出兵することを決めた。

天下人・秀吉が、関東一帯を治める大大名の北条家を攻める。日本を二分する大きな戦争となるのは必至。当然、蒲生家にも出兵命令がくだる。


左内は、その機会に貯めていた黄金7枚をはき出した。

馬を買い、武器・鎧も揃えた。貯め続けたお金でえた左内の装備は、閲兵式の中で最も充実したものとなった。左内の立派な装備を見た氏郷は、心意気をほめた。


普段は小金を稼いで、出費も抑える。しかし、ここが大勝負と判断したら、惜しまず大胆に使う。左内の生き方は、現代人にも教訓を与えてくれる。

左内はお金を稼ぐことと貯めることだけでなく、武勇にも優れていた。立派な装備を使いこなし、功績をたてていった。

 

小田原出兵の結果、主君・氏郷は会津92万石もの大領を与えられた。豊臣政権下では、徳川家・毛利家に継ぐ石高3位の大大名である。

左内も氏郷から1万石の俸禄を与えられ、高級武士となった。


もともと左内は、50石取りの武士でしかなかった。実に200倍の大出世である。

 

2.上杉家への転身と左内の奇妙な癖

話はここで終わらない。

氏郷は、会津に封じられてから4年後に病気でなくなってしまう。

 

氏郷死後は、家をまとめていたカリスマがいなくなり、家臣団で争いが起きた。

秀吉は、それを治められなかった罰として、蒲生家の領土を92万石から18万石へと、大幅に減らした。その上で、会津から宇都宮に移してしまう。


左内も困ったことだろう。自分の俸禄が蒲生家の負担になってもいけない。

そこで、新たに会津に入った上杉家に仕えなおした。まったく同じ条件とはいかなかったが、4,300石の大身で取り立てられた。

 

高級武士となってからもお金を稼ぐことが好きな点は変わっていなかった。それどころかスケールが大きくなっていった。

稼いだお金を畳に敷き詰めて、その上で寝ころがるのが大好きという変態的な一面があった。

寝ころがる以外にも、金銀を並べて、眺めることを無上の楽しみにしていたともいう。


銭ゲバと呼ばれても仕方ないだろう。上杉家の中でも、武士の風上にもおけないと非難する者が多かった。

 

しかし、左内はお金に汚いだけの人物ではなかった。

ある日、黄金を部屋に並べて眺めていた時に、友人と同僚が喧嘩になったと一報が入った。左内は取るものも取らずに急いで駆けつけ、双方の仲介となった。

必死の仲介により、数日後に両者は和解する。その間、黄金は出しっぱなしのままだったという。

お金は大事でも、お金のみに使われるわけではない左内を示すエピソードだ。

 

また、左内の馬の世話をしている家臣がいた。身分が低く、俸禄も低い。

その家臣が、左内を見習って自分の少ない給料から頑張って貯金して1両を貯めた。

左内はこれを大いに褒めて、褒美として10両を与えた。

周囲は、金を貯めただけなのに、あまりに恩賞が行きすぎていると批判した。


それに対し、「武士も金がなくてはいざ戦いとなったときに功績をあげることができない。低い身分でありながら蓄財にはげむことはとても立派な心がけだ」と答えたという。

いざというときのために、普段はお金を貯めておくべきという左内の考えがよくわかる。

 

そんな中、豊臣秀吉が死ぬ。

左内の新たな主君・上杉家は、天下人を目指していた徳川家康のターゲットになってしまう。

ある日突然、上杉家に謀反の疑いがかった。もちろん完全な濡れ衣である。謀反を起こしたという名目で自分のライバルを潰す、家康の算段だ。


家康はすでに、豊臣家の家臣ナンバー1であり、トップの秀頼は7歳の幼児だ。つまり、家康こそ事実上の最高権力者。日本中の大名を引き連れて、上杉征伐に乗り出した。

 

全国の武士を敵に回す、上杉家の大ピンチである。

左内はこの時、今までに稼いだお金を、戦費として上杉家に献上した。

これは驚くべき行為だ。通常は逆である。

主君が戦費を家臣に与えて、それで家臣が軍備を揃えるものだ。しかし、戦に備えて非常にもの入りの上杉家には大変ありがたい申し出だった。


また、同僚にも戦費を貸し付けた。

その様子を見て、左内を武士の風上にも置けないと批判するものはいなくなった。

 

お金で貢献しただけでない。実際の戦闘でも左内はバツグンの働きを示す。

なんと、伊達政宗と一騎打ちをして、あと一歩で打ち取れるところまで迫ったのだ。

この時、政宗は立派な鎧を着ていなかった。左内がとどめをさそうとしていたところ、伊達軍が、討ち取られそうな政宗を見て、守るために必死になって左内にかかってきた。

左内は身なりから見て大物ではないと思い、見逃してしまった。のちにそれが政宗と分かり、歯噛みして悔しがったという。

 

だが、そんな左内の奮戦もむなしく、戦いは家康側の勝利で終わる。

 

3.左内の義侠心と蒲生家への復帰

敗れた上杉家には、120万石から30万石への減俸処分がくだる。実に4分の1に減らされることになった。

上杉家では、皆が窮乏していった。そんな中、恐れていたことがある。

左内への借金だ。

 

左内は先ほど述べた通り、稼いだお金を同僚に軍費として貸しつけていた。大幅に領土が削られたので、とても払えない。

しかし、正当な貸し付けなので左内が訴えれば、払わざるを得ない。

 

皆が取り立てにおびえる中、上杉家の家老が左内に呼び出されて、家を訪れた。

すると左内はなんと証文をその場で焼き捨てた。同僚たちの左内への借金はチャラになった。

窮地に陥ったものをさらに困らせることはしない。左内の義侠心である。

 

その後、自分への俸禄が上杉家の負担になると考えた左内は、惜しまれながら上杉家を去る。そして、かつて仕えていた蒲生家に再度、仕えることにした。

蒲生家は家康側として戦っていた。

その結果、18万石から60万石への大幅な加増となった。

自分が新たに仕えても、もう蒲生家にとって負担にならないと判断したのだろう。

伊達政宗は左内に3万石でオファーを出していたようだが、古巣への思いは強いものだった。

蒲生家であらためて1万石の大身となった。

 

4.岡左内という男

左内は、お金を大事にしている。時に大事にするだけでなく、お金を使って変態的な行動にも走る。

しかし、お金は大事な時に使うためにある、お金のために困っているものをさらに困らせることはしないというポリシーがあった。

左内に銭ゲバという側面はたしかにあるだろう。しかし、ただの銭ゲバで終わらせてはならない。


偉大なる銭ゲバというべきである。