アラフォー事務リーマンの雑記

つらつらと思いついたことを書いていきます。

朱元璋 世界最大の成り上がり

 

 

成り上がり。

 

一代で大金を稼ぎ、地位を得た人に、使われる言葉である。

日本史においては、農民から関白になった豊臣秀吉が特に有名だろう。

 

視野を広げて、世界の歴史で探してみると、真っ先に挙げられるのは、朱元璋だ。
彼は、貧農の身から、中国の王朝・明の初代皇帝にまで上りつめた人物である。
貧農から皇帝。恐るべき変身だ。
彼が、どのように成り上がっていき、最後はどうなったのか見ていきたい。


1.悲惨な幼少期
朱元璋は1328年に、今の中国で農家の六人兄弟の末っ子として生まれた。

農家といっても豪農などではない。極貧の小作農である。

1344年には飢饉が起きて、父と母と兄が死んでしまった。

結果、一家は離散。かろうじて生きのびた兄と姉ともここで別れ、二度と会うことはなかった。

とても食べていけないため、寺に入り、4年もの間、各地を托鉢して回り、なんとか食いつないだ。悲惨な少年期である。

 

当時、中華を治めていたのは、モンゴル族の元だった。
かつて、チンギス・ハンが、広大なモンゴル帝国を打ち立てた。チンギス・ハンの死後も、帝国は拡大を続けた。

元は、その孫のフビライ・ハンが中国に攻め入って占領し、1271年に創始した王朝だ。日本では、元寇で攻めてきた国として有名である。

 

80年にわたり、中国全土を統治した元も、紙幣の乱発によるインフレと飢饉で民衆は苦しんでいた。

宗教結社・白蓮教が中心となって、1351年に反乱が勃発した。

元は支配階級こそモンゴル族だが、民衆の大多数は漢民族である。異民族の支配への反発もあり、反乱はまたたくまに広がり、国を揺るがす大騒動となっていた。

のちに紅巾の乱と呼ばれる反乱である。朱が23歳のころであった。

 


2.反乱軍の中で頭角を現す
各地に反乱の火の手が上がる中、郭子興という男も挙兵した。

郭もたちまち、数万の兵力を要する一大勢力となった。


朱は、入っていた寺が戦乱で焼け落ちたこともあり、反乱軍に参加するかどうか考えた。

迷った結果、占いをたて、参加することを決めた。そして、郭に会いに行ったところ、たちどころに警備に捕まってしまった。


理由はなんと容姿だ。

朱は極めて珍しい顔立ちをしていた。一言でいえば、醜かったのだ。見た目の異常さのみでスパイと疑われ、捕まってしまった。

貧しさのみでなく、容貌という面でも恵まれない人物である。


のちに皇帝となった朱には有名な肖像画が二枚ある。
一枚は、慈愛に満ちた優しげな肖像である。
もう一枚は、つり上がった目に、突き出した顎、顔一面のあばた。きわめて異相の肖像画だ。

皇帝にこびへつらって描いたものと、ありのままを描いたもの。後者の方が、実態に近いのだろう。

 


警備に引き連れられて朱と面会した郭は、かえって、異様な面構えを気に入って、部下に加えた。

捨てる神あれば拾う神あり。人生、何が幸いするか分からないものである。
郭に気に入られた朱は、そのもとで水を得た魚のように活躍をする。各地で戦功をあげ、どんどん出世していく。

そして、郭の娘と結婚することとなる。

 

3.中華の支配者へ
郭子興は1355年に、元の崩壊を見ることなく、病死してしまう。
朱は娘婿として、郭の息子や義弟と共に勢力の後継者となった。勢力が3つに割れてしまった。

ただ、彼らが元との戦いで戦死したことで、郭の勢力をまとあげることができた。


朱は優秀な人材を積極的に登用し、兵の略奪を厳禁して民衆の心をつかんだ。

元相手には優位に戦いを進めた。元は、朱のいる中国の南方では弱くなっていった。
だが、共通の敵がいなくなれば、派閥を作って相争うようになるのは、今も昔も変わらない。
今度は、各地で挙兵した反乱勢力同士の争いが激しくなっていった。

東には、巨大な富を持つ大勢力、西は強力な軍隊を持つ大勢力。朱は、それらに挟まれる形となった。


反乱勢力同士の戦いも熾烈を極めた。

西の勢力が60万人の水軍で、朱の領土に攻め入ってきた。それに対し、朱の兵力は20万人。劣勢である。

そこで、追い風が吹く日を選び、小回りの利く小型船を用いて火計を用いた。

西の勢力は鎖で船をつないでいたため、またたく間に火は広がった。大混乱に陥る敵軍。そのまま勢力のトップを討ち取った。


鎖でつながれた巨大な敵船団を、追い風の日に火計で破る。この展開に覚えがある人もいるのではないだろうか。

この戦いは、三国志演技の赤壁の戦いのもとになったと言われている。


西の勢力を倒した朱。残るは経済力をほこる東の勢力。
西を倒し総合力で上回ったため、東の勢力相手には、無理をせずに少しずつ包囲を狭めて、弱体化させていった。

一か八かの勝負に出ることもあれば、じっくり確実に勝ちに行くこともある。朱の優れた戦略眼である。


周囲の有力な勢力を打ち破っていき、1368年に、明王朝を創設して、初代皇帝に即位した。のちに明の洪武帝と呼ばれる。

同じ年に北にある元の首都・大都にも攻め入り、占領した。かつて中華全土を統治していたモンゴル族を北方に追いやったのである。


もはや朱の前に敵はなく、反乱に加わって17年、朱が40歳の時に、中華の支配者となった。

 

4.粛清の嵐
皇帝となった朱元璋は、英雄から恐怖の魔王に変わってしまった。

 

開墾と屯田の促進、土地台帳・戸籍の整理、皇帝直轄の省庁の整備など、後世に残る功績も多い。
しかし、なぜ恐怖の魔王なのか。それはあまりに支配が苛烈だからだ。

 

朱は、建国の功臣を徹底的に排除した。

代表例として、三度にわたる大規模な粛清がある。


一度目は、1380年に起きた。紅巾の乱を共に戦った宰相が謀反をたくらんだとして、処刑された。

謀反の計画が実際にあったかどうかは不明である。

この時、宰相の一派として、1万5000人以上が処刑された。

 

二度目は、その10年後。

10年前の謀反疑惑が蒸し返された。

紅巾の乱の際は軍師として朱を支えた者がいた。彼は10年前、謀反との関わりで失脚していた。

10年経ってから、唐突に失脚のみですまされず、「謀反を知っていながら告げなかった」と責められて、自殺を強要された。

そして、一族70人や他の建国の功臣19人を筆頭に、1万数千人が処刑された。


三度目は、さらに3年後。

将軍として重きをなした家臣が謀反を起こしたとして処刑された。

ここでも多くの功臣を含めて、加担したものや連座として2万人が処刑された。

 

この三度の粛清で5万人以上が処刑された。

建国の功臣はそのほとんどが消えてしまった。

苦楽を共にした将軍や、自分に力を尽くした政治家などが消滅した。かつての仲間の絆も、独裁の野望と猜疑心の前には無力であった。

 

それとは別に「文字の獄」という事件がある。
朱が昔、僧侶であったことから、「光」「禿」「僧」などの文字を使うことは、それをあてこすっているという理由で禁じられた。

これは生まれの低さのコンプレックスからきているのだろう。

のちに、それらと音が似ているという理由で、「道」「生」という漢字まで禁止になった。

朱を心からほめる文章であっても、その文字が使用されたため処刑された例がある。

処罰された方からしたら、非常に理不尽な話である。

 

さらに、公印事件というものが起こっている。
当時、地方との間の事務を効率的に処理するため、あらかじめ公印を押した書類を作ることが、官僚の慣習となっていた。

それを知った、朱が激怒した。


公印の管理者を処刑して、携わったものを全員、厳罰に処した。

たしかに、公印の管理という面で問題かもしれない。しかし、悪意を持ってやったわけでもない。

事務の効率化とのバランスをとって、すぐに処刑するのではなく、改善策を練る方向に動くべきだろう。

 

上述したもの以外にも、中小を合わせた一連の粛清で、あわせて10万人を超える死者が出たともいわれる。

 

こういった苛烈な支配におびえた官僚は、朝、出仕する前に家族で水の盃をかわし、帰ったら、今日、命があったことを喜ぶありさまだった。

次第に事なかれ主義になり、国家に尽くす優秀なものが育つ風土はなくなっていった。

 

一方で、自分の一族は優遇した。

朱には男の子が26人いる。一人は皇太子となり、一人は幼くして死去した。

それ以外の男子は各地の王になった。

とりわけ、北方の燕の王になった四男の朱棣は力を持った。

彼は北で強力な軍団を従え、モンゴル族の逆襲に備えていた。

 

皇族の力を強めたため、一族同士の争いになったことは、過去にあった。

その例をあげ、子を王にすることに反対する家臣もいた。

朱も、当然その危険性は知っていただろう。

それでも、幼いころに家族が散り散りとなり、ひとり、各地を流れ回った朱にとって、家族の絆は、決して破れないものと信じたかったのかもしれない。

 

5.朱元璋、亡き後
朱は1398年に死去した。享年69歳。


皇太子が朱に先だって死亡していたため、皇太子の子であり、朱の孫にあたる建文帝が、20歳で即位した。

建文帝は即位してすぐに、叔父たちの粛清を始めた。

あるものは死に、あるものは庶民に落とされた。


それに対して、前述した燕王の朱棣が反乱を起こした。

叔父と甥の戦いである。この戦いは、靖難の変とよばれ、3年にもわたる死闘となった。

兵力は皇帝である建文帝の方が圧倒的に優位だが、叔父・朱棣が率いるのは、モンゴルに備えた精鋭である。
粛清で優秀な将軍がいなくなったこともあり、激戦の末、叔父の朱棣が勝利した。そして、新たに永楽帝として即位した。
朱元璋が理想とした家族の融和はついえてしまった。

 

 

朱元璋は、流浪の貧農から中華皇帝という世界最高の地位に上りつめた。

その意味ではこれ以上ない成功者であろう。


しかし、かつての仲間たちを粛清して、部下を恐怖の底に陥れた。

そこまでして、守った子孫だったが、息子と孫は殺し合いを始めた。

 

世界史上最大の成り上がりの結果は、悲しいものとなってしまったのである。