アラフォー事務リーマンの雑記

つらつらと思いついたことを書いていきます。

建長寺 勝上献展望台への厳しい登山

 

前々回前回の続き)

明月院、長寿寺に続いて建長寺を訪れた。

 

建長寺も最寄り駅は北鎌倉駅で、東口から徒歩15分。

私は、長寿寺から7、8分ほど歩いていった。

 

建長寺は1253年に、北条時頼により創建された。

鎌倉五山第一位の古刹である。

 

2013年の秋にいったことがある。

9年ぶりの来訪だ。

 

 

 

天下門に到着。

くぐったら駐車場に出る。

訪れた日は、隣の高校で学園祭がやっていたようで、道には若い人が多かった。

 

 

巨福門

1783年に建てられた。

ここをくぐると拝観受付がある。

 

 

受付をすませ、境内へ。

アジサイの時期の明月院と比べたら、さすがに人が少ない。

緑豊か。

 

 

 

三門

1775年に建てられた。

壁や門扉を持たず、仏像も置かない簡素な作り。

しかし、巨大さに圧倒される。

 

 

 

梵鐘

1255年に鋳造された。

創建時から残る貴重な鐘。

国宝。

 

 

仏殿

本尊の地蔵菩薩坐像を安置する。

1647年に東京・芝の増上寺より移築。

 

 

本尊の地蔵菩薩坐像

非常に大きい。

壁や天井も派手に彩色されている。

 

 

 

法堂

1814年に建てられた。

関東最大級の木造建築。

住職が説法をするための場所。

今は、釈迦苦行像と千手観音菩薩像を祀っている。

 

 

法堂天井画雲龍

その名のとおり、法堂の天井に描かれている。

横10m、縦12mの大きさで、とても迫力がある。

 

 

 

唐門

仏殿と同じく、増上寺から1647年に移築された。

桃山様式の黒と金の絢爛たる門。

方丈の正式な入り口である。

 

 

拝観者用の入口。

ここから方丈と庭園に入る。

 

 

 

広々とした和室で、大きな建物だ。

 

 

庭園

作庭は蘭渓道隆

緑が美しい。

 

 

方丈の庭園を見れば、建長寺はだいたい見終わる。

ガイドブックで言えば、見どころの9割は見たことになるだろう。

ここで帰っても何の問題もない。

 

だが、あえて言う。

ここからが本番だ。

 

ここから鎌倉半僧坊と勝上献展望台に向かう。

 

今までの建物ほど歴史があったり、巨大だったり、豪華だったりはしない。

しかし、見どころとして書いてある以上、行かざるをえない。

 

どちらも大変なのだが、特に勝上献展望台に行くのが本当に大変である。

 

9年前もそこを訪れた。

とてもキツかった記憶がある。

その時に、観光は足が達者な若いうちにしておこうと強く感じた。

 

 

境内なのか一般道なのか分からない道を通って、半僧防に向かう。

 

 

半僧坊への道

ここから階段をひたすらのぼり続ける。

 

 

もうキツい。

 

 

12体の天狗像がある。

 

 

鎌倉半僧坊

建長寺の鎮守「半僧坊大権現」を祀るお堂。

 

 

 

富士見展望台

空気が澄んでいる日は富士山が見えるそう。

この日は見えなかった。

 

 

半僧坊について、ベンチにかけてひと休みした。

正直、ここまで汗がだいぶ出て、疲労もかなりたまっている。

 

だが、向かうのだ。勝上献展望台へ。

 

 

 

半僧坊までの階段は、整備されていた。

だが、これからはさほど整備されていない。

急で不規則な階段を150段のぼる。

階段の奥行きも短く、とても怖い。

150段とあなどるなかれ。体力を使う上に、シンプルに恐ろしい。

 

 

勝上献展望台

やっとたどりついた。

身体はだいぶ悲鳴をあげている。

 

建物や仏像があるわけではなく、正直、特筆するものは特にない。

ただ、一番高い場所というだけだ。

 

眺めに関しても、半僧坊そばの富士見台の方が遥かに良い。

達成感のみがご褒美である。

しかし、それこそがプライスレス。

建長寺の最奥まで制したという実感が得られる。

 

なお、下りはもっと怖い。

写真を撮りたかったが、手を離したら体勢が崩れて落ちそうなので撮らなかった。

 

下り終わったら、疲労で足が震え出した。

 

9年前に行った際は、雨が降っていたからなおさらだった。

傘で片手がふさがって手すりを掴むのに支障が出るうえ、足元が滑りやすい。

よく無事に下りれたものだ。

 

勝上献展望台に行こうと思っている人には、歩きやすい靴が絶対条件であることを伝えておきたい。

 

 

建長寺鎌倉五山第一位ということで歴史あるものが多い。

非常に巨大、かつ派手なものが多く見るものを飽きさせない。

鎌倉五山の第一位というだけあって、とても素晴らしい場所だ。

 

ただ、その大半は、方丈に入り、庭園を見ればすむ。

効率良く楽しむ人はそこで引き返すのがベストだ。

 

だが、せっかく行くからには極めなけばという人は、ぜひ、勝上献展望台に行ってみて欲しい。

汗と筋肉痛と達成感を得られるだろう。

長寿寺 足利尊氏ゆかりの寺を訪れる

 

前回の記事で書いた明月院に行った後、長寿寺を見にいった。

 

最寄りは北鎌倉駅で、徒歩10分。

明月院からも歩いて10分程度でついた。

 

長寿寺は毎年、期間限定で公開される。

開いているのは、4~6月と10、11月の5か月だ。

しかも、その期間でも拝観ができるのは、金土日と祝日のみである。

さらに、雨天中止だ。

拝観の機会は限られている。

 

長寿寺は、足利尊氏ゆかりの寺として有名である。

尊氏の邸宅跡に建てられた。

建てたのは、尊氏の四男で初代・鎌倉公方足利基氏

 

そんな足利尊氏ゆかりの寺を見ていく。

 

 

道路に面した看板(?)で、いきなり足利尊氏ゆかりをアピールしている。

 

境内に入り、まず尊氏の墓を目指した。

 

 

観音堂

墓を見にいく途中に建っていた。

 

 

観音堂にある聖観音

 

 

足利尊氏公の墓所

供養塔。遺髪が納められている。

尊氏は一介の御家人から征夷大将軍まで上りつめ、室町幕府を開いた英傑。

 

 

本堂裏庭園

 

 

庭園から本堂と書院を臨む。

本堂と書院はつながっている。

 

 

本堂

 

 

本堂の釈迦如来

 

 

 

書院から見る枯山水

 

 

書院

広々とした和室

 

 

 

裏手から右に出ると、アジサイで有名な亀ヶ谷坂にすぐつく。

訪れた日は、満開の時期とは少しズレていたようだ。

 

 

静寂とした空間に広がる枯山水と大きな和室。

長寿寺は、足利尊氏南北朝時代が好きな人や、静かに寺や庭を楽しみたい人にとっては、行って損のない場所だろう。

 

あるいは「明月院まで来たし、せっかくだから他のところも行きたい。でも、建長寺円覚寺は行ったことあるしなあ。」という人にもおすすめの場所だ。

明月院ブルー 6月なかばの鎌倉散歩

 

 

きょうは鎌倉にある明月院に行ってきた。

 

アジサイ寺として、とても有名な場所である。

昨年のアジサイの時期はコロナ禍で、休日は拝観中止。

平日も神奈川県民のみ拝観可能だった。

 

今年は、全国から拝観を受け入れ、土日でも行けるようになった。

梅雨ではあるが、天気の良い日に行ってみた。

 

 

最寄りは北鎌倉駅

東口から徒歩10分のところにある。

 

 

午前10時に到着。

とても混みあっている。

 

 

しかし、10分待てば、入場できた。

30分は覚悟していたので、良かった。

入場してすぐに、アジサイのお出迎え。

 

 

足元にあるウサギと亀の像。

 

 

参道はすごい人だかり。

少しずつ進む。

 

 

右にも左にもアジサイがたくさん。

 

 

参道は2ルートある。

別ルートを使っても、同様にアジサイがたくさん。

 

 

一つの方向から見てみる。

 

 

アジサイの接写。

 

 

紫のアジサイもある。

 

 

アジサイにまみれた空間。

 

 

 

開山堂

 

1380年ごろ、建立されていた。
堂内に密室守厳の木造、歴代住持の位牌を祀る。

 

 

 

明月院やぐら

 

洞窟に穴をほった墓である「やぐら」。

幅7メートル、奥行6メートル、高さ3メートル。

平治の乱の際に戦死した、山内俊通のためのものと伝わる。

 

 

 

本堂後庭園の枯山水

 

 

本堂後庭園のハナショウブ

 

 

本堂後庭園にもアジサイは咲いている。

 

 

 

明月院では、ウサギを飼っている。

動いている姿は見れなかった。

残念。

 

 

 

北条時頼公の墓所

今の大河ドラマの主人公・北条義時のひ孫で、

北条泰時(金剛)の孫。

摂家将軍を追放して、ライバルの三浦氏を宝治合戦にて破り、

北条家の当主を絶対とする得宗専制を完成させた人物。

それなのに、墓所は小ぶり。

 

 

 

帰路は竹林を通る。

空気が澄んでいる。

 

明月院は、アジサイに満ち溢れた、アジサイまみれの寺だ。

 

ぜひともこの季節に足をのばしてみて欲しい。

高配当株投資、はじめました?

 

 

昨日の書評記事が、この弱小ブログにしては異常なほど伸びている。

著者の長期株式投資さんが私の記事にTwitterで反応してくださったこともあり、普段の50倍くらいのアクセスになった。

 

 


若干、ビビッている。


ブログのアクセス数はともかく、日本の高配当株を始めたいという意思は前からあったので、ずっと動いていた。


そして、いよいよ本日

①賞与が入る
②SBIネオモバイル証券口座が開かれる
日経平均が1.5%下落する

上記の三つが、朝方に起こった。
まさに天の時を得た高配当株デビューの日だ。
高配当株の記事が大いに伸びたのも祝福しているようだ。

さあ、始めるぞといきこんだ。


・・・だが、始められなかった。


理由は、そもそもポートフォリオの何%を日本の高配当株にするか決めなかったから。
具体的な数字を決めてなかった。

また、証券口座がSBIネオモバイル証券でいいのか悩んだ点や、賞与が入って投資総額の再計算が必要になった点も理由としてあげられる。


市場が閉まってから、じっくり考えて決めた。
資産運用の5%を日本の高配当株にあてることを。

そして、日本の高配当株は10銘柄に均等に投資することも決めた。

候補は大分上がってきているが、未定の部分も多い。
これから自分の選んだ高配当10社を、十本刀と命名する。
BLEACHよりも、るろうに剣心派である)

これから精鋭・十本刀を選ぶ旅に出たい。
十本刀が揃ったら、ブログで個別銘柄を発表しようかなと考えている。

まだまだ選定中だが、今のところは、4つ、5つはほぼ確定した。

 

そして、思うのが、投資する株を探すのって楽しいね。
高配当株の候補を出して、IRバンクで財務健全性や安定性、成長性を調べる。

こんな手間をかけても、TOPIXに連動するインデックスファンドよりリターンが悪いかもしれないとは覚悟している。
報われない行為になるかもしれない。

ただ、調べていて面白い。
オーナーになった気分だ。
目星をつけた企業について、投資にするに値するか見極めるのは、神の目線を持ったようで面白い。

競馬新聞を買い、テラ銭を払って競馬するよりは、実リターンのある趣味だろう。
趣味的な面が強いと割り切って、続けていきたい。

オートモードで月に18.5万円が入ってくる「高配当」株投資 ど素人サラリーマンが元手5万円スタートでできた!  書評

 

 

今回は、「オートモードで月に18.5万円が入ってくる「高配当」株投資 ど素人サラリーマンが元手5万円スタートでできた!」の書評を投稿する。


最近はインデックス投資が大ブームである。
私も行っている。
しかし、インデックス投資は、うまくいっても証券口座の評価額が増えるだけである。
実感に乏しい。

それに対して、高配当株投資は、現実のキャッシュが得られる魅力的な投資だ。
豊かになっていく実感もわきやすい。
だが、世間で語られている高配当株投資の中心はアメリカ株である。

 

日本人が日常で必要なのは円なのに、アメリカ株で得られるキャッシュはドルである。
しかも、個別株を買おうとすると、読み解くための決算資料は英語で書かれている。

決算資料が日本語で書かれて、円のキャッシュが手に入る日本株の高配当株投資は非常に魅力的な投資の一つである。

本書は、日本株での高配当株投資について、やり方を整理した一冊である。


著者は、「長期株式投資」氏。
1977年生まれ。会社員として勤めながら、ブログ・Twitterで高配当株投資の情報発信をしている。

著者は、2004年から投資を始めた。
当初は新興市場の投資が中心でライブドアショックを受け、さらにリーマンショックでサンドバッグ状態になった。
その後、2009年から大型高配当株投資に乗り換えた。
乱高下する株価と違い、配当金は安定して増え続けて、手取り配当は毎年、増え続けていった。
2021年は年223万円、月あたり18.5万円の配当を得るまでになった。

 

私は、先述の通り、高配当株に興味を持っていた。
アメリカの高配当株ETFは今年の4月に購入済みである。

日本株でも高配当投資を行いたいと思っていた。
しかし、日本に経費率が低い高配当ETFがなく、自分で個別株を選ぶ必要がある。

高配当株のポートフォリオの組み方を知りたいと思い購入した。


読みやすい文章で書かれていて、株式投資にあまり触れていない人にとっても分かりやすい内容だった。

この書では、基本として「3つの投資指標」をあげている。

①EPS・・・1株あたり何円の利益があるか
②PER・・・株価÷1株利益(EPS)
配当利回り・・・1株あたりの配当金÷株価

 

すでに知っている概念だが、なぜ重要かを丁寧に述べている。

 

PERや配当利回りの重要性は知っていた。
特にPERは、もっとも重要な指標だと考えていた。
実績ある著者にそれを繰り返されると、やはり重要なんだなと自信が持てた。

 

EPSについては、言葉と意味は知っていたが重要視していなかった。
今後は、基本指標の1つとして重視していきたい。


3つの指標、EPS・PER・配当利回りは、きわめて基本的な考えだ。

しかし、それを知っていることで、市場で生き残る確率は10倍になると著者はいう。
たしかにその通りだと思う。

 

私も昔、その会社の商品が好き、ニュースで見て株価が上がりそうだと思った、
その程度の思いで投資をしていた。
株主優待を主目的で投資をしている人もいる。

 

しかし、おまけに過ぎない株主優待や、世間みんなが知っているニュースで投資をするのは危険だ。
基礎指標の読み解き方も知らないで個別株投資をするのは、キャッチボールもしたことないのに野球をするようなものである。

 

かつての私のような素人が大量に市場にいる。
その中で、3つの指標を用いて、長期・分散で投資をしたら、生き残る確率は飛躍的に高まるだろう。

 

その他にも、高配当株を探すための重要な考え方を基本から述べていた。

罠銘柄の回避方法も分かりやすかった。

連続増配企業の具体例や、セクターの考えなども面白かった。
暴落が起こった際の理論上の最低PBRや、ミックス係数という考え方は初めて知った。

 

入門書として大変参考になった。

 

本書の「死ぬまで持ち続けたい銘柄17選」では、著者が選んだ具体的な銘柄を紹介している。

本書の一番の肝かもしれない。
銘柄の名前を挙げるだけでなく、その銘柄のいい理由、具体的にどのくらいの株価になったら買うかなどが参考になった。


私もここで習った考え方を活かして、自分で買いたい高配当株のリストを作成したい。
現在、10銘柄リストアップすることを考えている。
そして、安くなっている日に買い向かいたいと思っている。

 

 

本書は、日本株で高配当株投資を行いたい人の入門書として最適な書である。
インデックス投資に飽きている人、アメリカのドル以外にキャッシュフローが欲しい人にとても役立つ本だと考える。

 

 

Coincheckにて仮想通貨デビュー

 

 

金融の見聞を広めるために仮想通貨投資を始めた。

これから始める人の一助となればと思い、私の体験を書いていく。

 

私は、株式インデックスの信者である。

ただ、仮想通貨に興味がないわけではなかった。

資産分散の一角として、ビットコインは検討の余地があると思っていた。

早めに手を出し、成功している兄を見ている影響もあっただろう。

 

5年前の2017年6月2日は、1ビットコイン282,000円だったのが、5年後の2022年6月2日には、3,928,000円になっている。

なんと14倍だ。

今後もここまでうまくいくとは思わないが、ポートフォリオの一角にするのもやぶさかではない。

 

仮想通貨を買うためには、取引所を選んで、口座を開く必要がある。

株式投資でいうところの、証券会社選びだ。

どこがよいかグーグル検索をした。

 

取引所のランキングがまとめられた記事をいくつか読んだ。

概して評価の高い、Coincheckを選んだ。

投資系インフルエンサー・バフェット太郎氏が仮想通貨ならCoincheckをすすめていたのも、選んだ理由の一つだ。

 

coincheck.com

 

証券会社では有名な、マネックスグループの傘下である。

取引手数料もかからず、500円から始められる。

(事実上の取引手数料はある。後述する。)

 

さっそく、口座開設サイトに飛び、名前や住所、メールアドレスなど所定の情報を入力した。

スマホを使い、本人確認書類として、免許証をアップデートした。

 

その後、顔写真を、スマホのインカメラで、3枚とることを求められた。

しかも、2枚は顔を動かしながらとる必要がある。動かすことに慣れるまで何回もエラーが出た。

顔を右に動かしてくださいと表示されるのだが、ゆっくり少しずつ動かさないと、認識できませんと怒りのメッセージが飛んでくる。リテイク5回くらいでクリアした。

顔写真を撮り終わったら3時間ほどして、開設完了の連絡が入った。

 

マイナンバーカードの提出を求められなかった点、紙書類の提出が必要でなかった点などは、証券会社よりも簡略でいい。

 

 

開設しても入金しなければ、当然、買うことはできない。

入金するための口座が指定されている。

GMOあおぞらネット銀行か、住信SBI銀行の口座から選ぶことができる。

 

私は住信SBI銀行口座への振り込みを選んだ。

振込人名義は、名前の前に口座番号を加える必要がある。

振込先の口座や、こちらが入れる口座番号付きの振込人名義は、サイトから簡単にコピぺできたので、楽だった。

 

ネットバンキングでの振り込みて手続きが終わって、5分すると入金が反映された。

 

取引所の口座にお金が入ったらいよいよ購入だ。

とても簡単にできた。

 

メニューの中から「販売(購入)」のページを行くと購入ページに飛ぶ。

そこの下にある「購入する」ボタンをクリックすれば、『入金されている日本円について、全額ビットコイン購入』という処理になっていた。

クリックすると、すぐにそれが実行される。

ネット証券のように、買う銘柄と金額を選んだり、あらためて確認画面が表示されたり、取引パスワードの入力が必要だったりはしない。

 



 

たしかに、私がしたかったのは、全額ビットコイン購入だ。

だが、入金の中の一部だけを購入したい場合やビットコイン以外を買う場合は、簡単にクリックしないよう気をつける必要がある。

 

ビットコインCoincheckが取り扱う仮想通貨のシェア一位で、取引全体の64・1%がビットコインらしい。

さすが、仮想通貨の王様。

正直、私も仮想通貨では、よく知っているのはそれだけだ。

 

ただ、それだけでなく、イーサリアムリップルなど、名前だけは聞いたことがあるような仮想通貨も購入ができる。

 

30,000円分を購入したら、0.00756BTCに変わった。

(BTCはビットコインの単位)

円換算で、29,111円分。金額が減った。

これが前述した、事実上の手数料だ。

 

 

Coincheckでは買うときのレートと、売るときのレートに差がある。

買うときは高く、売るときは安い。

 

その差分をスプレッドと呼ぶ。それが、事実上の手数料である。

 

Coincheckのスプレッドは6%。

買うときに3%、売るときに3%、余分にかかる。

 

事実、私は買った瞬間、いきなり2.96%評価額が下がった。

改めて見ると結構かかったなあ。

 

10万円までたったの99円(楽天証券SBI証券)の手数料で取引できる株は、ものすごい安さだ。

 

買った時よりも6%価値が上がっても、手数料で利益がゼロになってしまう。

仮想通貨は長期で持つ必要があるとあらためて強く思った。

 

 

Coincheckでは簡単に口座を開くことができた。

申し込みの翌日に取引もできるのは、株だと難しいだろう。

朝一で申し込めば、当日中に買うことも可能だ。

 

取引所への入金や購入も簡単だった。簡単すぎて、間違えないか心配になるほどだ。

 

だが、いきなり3%も取引手数料がかかったのには驚いた。

手数料分の回復を気長にまっていきたい。

 

 

(追記)

初めて買った6月2日には、29,111円だったが、本日6月8日は、30,791円になっていた。

たまたまではあるが、手数料分で減った分が回復して気分がいい。

朱元璋 世界最大の成り上がり

 

 

成り上がり。

 

一代で大金を稼ぎ、地位を得た人に、使われる言葉である。

日本史においては、農民から関白になった豊臣秀吉が特に有名だろう。

 

視野を広げて、世界の歴史で探してみると、真っ先に挙げられるのは、朱元璋だ。
彼は、貧農の身から、中国の王朝・明の初代皇帝にまで上りつめた人物である。
貧農から皇帝。恐るべき変身だ。
彼が、どのように成り上がっていき、最後はどうなったのか見ていきたい。


1.悲惨な幼少期
朱元璋は1328年に、今の中国で農家の六人兄弟の末っ子として生まれた。

農家といっても豪農などではない。極貧の小作農である。

1344年には飢饉が起きて、父と母と兄が死んでしまった。

結果、一家は離散。かろうじて生きのびた兄と姉ともここで別れ、二度と会うことはなかった。

とても食べていけないため、寺に入り、4年もの間、各地を托鉢して回り、なんとか食いつないだ。悲惨な少年期である。

 

当時、中華を治めていたのは、モンゴル族の元だった。
かつて、チンギス・ハンが、広大なモンゴル帝国を打ち立てた。チンギス・ハンの死後も、帝国は拡大を続けた。

元は、その孫のフビライ・ハンが中国に攻め入って占領し、1271年に創始した王朝だ。日本では、元寇で攻めてきた国として有名である。

 

80年にわたり、中国全土を統治した元も、紙幣の乱発によるインフレと飢饉で民衆は苦しんでいた。

宗教結社・白蓮教が中心となって、1351年に反乱が勃発した。

元は支配階級こそモンゴル族だが、民衆の大多数は漢民族である。異民族の支配への反発もあり、反乱はまたたくまに広がり、国を揺るがす大騒動となっていた。

のちに紅巾の乱と呼ばれる反乱である。朱が23歳のころであった。

 


2.反乱軍の中で頭角を現す
各地に反乱の火の手が上がる中、郭子興という男も挙兵した。

郭もたちまち、数万の兵力を要する一大勢力となった。


朱は、入っていた寺が戦乱で焼け落ちたこともあり、反乱軍に参加するかどうか考えた。

迷った結果、占いをたて、参加することを決めた。そして、郭に会いに行ったところ、たちどころに警備に捕まってしまった。


理由はなんと容姿だ。

朱は極めて珍しい顔立ちをしていた。一言でいえば、醜かったのだ。見た目の異常さのみでスパイと疑われ、捕まってしまった。

貧しさのみでなく、容貌という面でも恵まれない人物である。


のちに皇帝となった朱には有名な肖像画が二枚ある。
一枚は、慈愛に満ちた優しげな肖像である。
もう一枚は、つり上がった目に、突き出した顎、顔一面のあばた。きわめて異相の肖像画だ。

皇帝にこびへつらって描いたものと、ありのままを描いたもの。後者の方が、実態に近いのだろう。

 


警備に引き連れられて朱と面会した郭は、かえって、異様な面構えを気に入って、部下に加えた。

捨てる神あれば拾う神あり。人生、何が幸いするか分からないものである。
郭に気に入られた朱は、そのもとで水を得た魚のように活躍をする。各地で戦功をあげ、どんどん出世していく。

そして、郭の娘と結婚することとなる。

 

3.中華の支配者へ
郭子興は1355年に、元の崩壊を見ることなく、病死してしまう。
朱は娘婿として、郭の息子や義弟と共に勢力の後継者となった。勢力が3つに割れてしまった。

ただ、彼らが元との戦いで戦死したことで、郭の勢力をまとあげることができた。


朱は優秀な人材を積極的に登用し、兵の略奪を厳禁して民衆の心をつかんだ。

元相手には優位に戦いを進めた。元は、朱のいる中国の南方では弱くなっていった。
だが、共通の敵がいなくなれば、派閥を作って相争うようになるのは、今も昔も変わらない。
今度は、各地で挙兵した反乱勢力同士の争いが激しくなっていった。

東には、巨大な富を持つ大勢力、西は強力な軍隊を持つ大勢力。朱は、それらに挟まれる形となった。


反乱勢力同士の戦いも熾烈を極めた。

西の勢力が60万人の水軍で、朱の領土に攻め入ってきた。それに対し、朱の兵力は20万人。劣勢である。

そこで、追い風が吹く日を選び、小回りの利く小型船を用いて火計を用いた。

西の勢力は鎖で船をつないでいたため、またたく間に火は広がった。大混乱に陥る敵軍。そのまま勢力のトップを討ち取った。


鎖でつながれた巨大な敵船団を、追い風の日に火計で破る。この展開に覚えがある人もいるのではないだろうか。

この戦いは、三国志演技の赤壁の戦いのもとになったと言われている。


西の勢力を倒した朱。残るは経済力をほこる東の勢力。
西を倒し総合力で上回ったため、東の勢力相手には、無理をせずに少しずつ包囲を狭めて、弱体化させていった。

一か八かの勝負に出ることもあれば、じっくり確実に勝ちに行くこともある。朱の優れた戦略眼である。


周囲の有力な勢力を打ち破っていき、1368年に、明王朝を創設して、初代皇帝に即位した。のちに明の洪武帝と呼ばれる。

同じ年に北にある元の首都・大都にも攻め入り、占領した。かつて中華全土を統治していたモンゴル族を北方に追いやったのである。


もはや朱の前に敵はなく、反乱に加わって17年、朱が40歳の時に、中華の支配者となった。

 

4.粛清の嵐
皇帝となった朱元璋は、英雄から恐怖の魔王に変わってしまった。

 

開墾と屯田の促進、土地台帳・戸籍の整理、皇帝直轄の省庁の整備など、後世に残る功績も多い。
しかし、なぜ恐怖の魔王なのか。それはあまりに支配が苛烈だからだ。

 

朱は、建国の功臣を徹底的に排除した。

代表例として、三度にわたる大規模な粛清がある。


一度目は、1380年に起きた。紅巾の乱を共に戦った宰相が謀反をたくらんだとして、処刑された。

謀反の計画が実際にあったかどうかは不明である。

この時、宰相の一派として、1万5000人以上が処刑された。

 

二度目は、その10年後。

10年前の謀反疑惑が蒸し返された。

紅巾の乱の際は軍師として朱を支えた者がいた。彼は10年前、謀反との関わりで失脚していた。

10年経ってから、唐突に失脚のみですまされず、「謀反を知っていながら告げなかった」と責められて、自殺を強要された。

そして、一族70人や他の建国の功臣19人を筆頭に、1万数千人が処刑された。


三度目は、さらに3年後。

将軍として重きをなした家臣が謀反を起こしたとして処刑された。

ここでも多くの功臣を含めて、加担したものや連座として2万人が処刑された。

 

この三度の粛清で5万人以上が処刑された。

建国の功臣はそのほとんどが消えてしまった。

苦楽を共にした将軍や、自分に力を尽くした政治家などが消滅した。かつての仲間の絆も、独裁の野望と猜疑心の前には無力であった。

 

それとは別に「文字の獄」という事件がある。
朱が昔、僧侶であったことから、「光」「禿」「僧」などの文字を使うことは、それをあてこすっているという理由で禁じられた。

これは生まれの低さのコンプレックスからきているのだろう。

のちに、それらと音が似ているという理由で、「道」「生」という漢字まで禁止になった。

朱を心からほめる文章であっても、その文字が使用されたため処刑された例がある。

処罰された方からしたら、非常に理不尽な話である。

 

さらに、公印事件というものが起こっている。
当時、地方との間の事務を効率的に処理するため、あらかじめ公印を押した書類を作ることが、官僚の慣習となっていた。

それを知った、朱が激怒した。


公印の管理者を処刑して、携わったものを全員、厳罰に処した。

たしかに、公印の管理という面で問題かもしれない。しかし、悪意を持ってやったわけでもない。

事務の効率化とのバランスをとって、すぐに処刑するのではなく、改善策を練る方向に動くべきだろう。

 

上述したもの以外にも、中小を合わせた一連の粛清で、あわせて10万人を超える死者が出たともいわれる。

 

こういった苛烈な支配におびえた官僚は、朝、出仕する前に家族で水の盃をかわし、帰ったら、今日、命があったことを喜ぶありさまだった。

次第に事なかれ主義になり、国家に尽くす優秀なものが育つ風土はなくなっていった。

 

一方で、自分の一族は優遇した。

朱には男の子が26人いる。一人は皇太子となり、一人は幼くして死去した。

それ以外の男子は各地の王になった。

とりわけ、北方の燕の王になった四男の朱棣は力を持った。

彼は北で強力な軍団を従え、モンゴル族の逆襲に備えていた。

 

皇族の力を強めたため、一族同士の争いになったことは、過去にあった。

その例をあげ、子を王にすることに反対する家臣もいた。

朱も、当然その危険性は知っていただろう。

それでも、幼いころに家族が散り散りとなり、ひとり、各地を流れ回った朱にとって、家族の絆は、決して破れないものと信じたかったのかもしれない。

 

5.朱元璋、亡き後
朱は1398年に死去した。享年69歳。


皇太子が朱に先だって死亡していたため、皇太子の子であり、朱の孫にあたる建文帝が、20歳で即位した。

建文帝は即位してすぐに、叔父たちの粛清を始めた。

あるものは死に、あるものは庶民に落とされた。


それに対して、前述した燕王の朱棣が反乱を起こした。

叔父と甥の戦いである。この戦いは、靖難の変とよばれ、3年にもわたる死闘となった。

兵力は皇帝である建文帝の方が圧倒的に優位だが、叔父・朱棣が率いるのは、モンゴルに備えた精鋭である。
粛清で優秀な将軍がいなくなったこともあり、激戦の末、叔父の朱棣が勝利した。そして、新たに永楽帝として即位した。
朱元璋が理想とした家族の融和はついえてしまった。

 

 

朱元璋は、流浪の貧農から中華皇帝という世界最高の地位に上りつめた。

その意味ではこれ以上ない成功者であろう。


しかし、かつての仲間たちを粛清して、部下を恐怖の底に陥れた。

そこまでして、守った子孫だったが、息子と孫は殺し合いを始めた。

 

世界史上最大の成り上がりの結果は、悲しいものとなってしまったのである。